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統計で見えること、見えないこと――卒業研究を通して考えたこと

  • 4月6日
  • 読了時間: 6分

篠原研究会を卒業した卒業生に、SFCや研究会での学びについて伺いました。

今回お話を伺ったのは、研究会に3年半所属し、統計分析を軸に研究に取り組んできた佐々木さん(2025年度秋卒業)です。数字が示してくれること、そして数字だけでは語りきれないこと。その両方に向き合った卒業研究を通して学んだことを振り返っていただきました。

統計が好きだった理由

私は昔から数学が好きだったのだと思います。なぜなら、答えが一つに決まるからです。

数字を見ていると、感覚や印象に埋もれていたものが、すっと輪郭を持って立ち上がってくるように感じられます。同じように、統計を使えば、世の中のファクトが見える。かなり長いあいだ、私はそう思ってきました。


研究会のなかでも、統計について話したり、分析の考え方を説明したりすることはよくありました。数字で考えると、印象論から少し自由になれます。複雑な現実を整理し、議論を前に進めるための道具として、統計はとても魅力的でした。


社会科学において統計ができること

ただ、社会科学における統計は、何でも一発で説明してくれるものではありません。

自然科学のように条件を厳密にそろえて現象を見るのとは違って、社会科学が向き合うのは、人の行動や意識、進路選択、地域への愛着のような、さまざまな要因が重なって生まれる現実です。家庭環境、学校経験、周囲との関係、制度、経済状況。そうした多くの要素が絡み合うなかで、統計は「どんな傾向があるのか」「どの要素どうしに関係がありそうか」を整理して見せてくれます。


だからこそ、社会科学における統計の強みは、複雑な現実を無理に単純化しきることではなく、その複雑さのなかにある一定のパターンや偏りを丁寧に捉えることにあるのだと思います。一方で、統計が示してくれるのは、あくまで観察できたデータの範囲における傾向です。その背後にある意味や文脈、個々人の経験の厚みまでを、数字だけですべて語り尽くせるわけではありません。


卒業研究で見えたこと、見えなかったこと

卒業研究では、高校生の自由記述データを用いながら、学校種別の違いが将来の働き方や暮らし方の語り方にどう表れるのかを分析しました。実際に分析を進めるなかで、いくつか興味深い差は見えてきました。データのなかに埋もれていた傾向が、数字によって少しずつ浮かび上がってくる。その感覚は、やはりおもしろいものでした。


ただ、差が見えたからといって、それで話が終わるわけではありませんでした。

むしろ、その先のほうがずっと難しかったです。その差はなぜ生まれたのか。どこまでがデータから言えることで、どこから先は解釈なのか。本人たちにとって、その違いはどんな意味を持つのか。統計は「差がある」とは教えてくれますが、「だからこうだ」とまでは自動で説明してくれません。


「そこまでは言い切れない」と言われ続けたこと

「そこまでは言えない、よりpost-positivistに。」

篠原先生から卒業論文締切前日まで繰り返し指摘されました。


post-positivist という立場は、簡単に言えば、「客観的な現実は存在するが、人間にはそれを完全には捉えきれない」と考えるものです。研究デザインとしてより厳密に学びたい方は、ぜひ篠原先生の「方法論探究」を受講してみてください。私自身、この言葉の意味を、卒業論文を書きながら少しずつ実感していきました。


分析結果を書いては、「そこまでは言い切れない」と言われる。そのたびに、自分では少しもどかしく感じていました。せっかく結果が出ているのに、なぜこんなに慎重でなければならないのだろう、と。


でも、その指摘を受け続けたことで、少しずつわかってきたことがあります。研究において大事なのは、結果を大きく見せることではなく、どこまでなら言えるのかを丁寧に見極めることなのだ、ということです。有意差が出たからといって、すぐに強い結論を出してよいわけではありません。統計は現実の一部を照らしてくれますが、照らしていない部分まで勝手に説明してくれるわけではないのです。


今振り返ると、先生はずっと、分析技術そのもの以上に、研究者としての姿勢を指摘していたのかなと。統計結果を出すことと、その結果を正しく扱うことは別です。この二つを混同しないことが、社会科学ではとても大事なのだと、一貫して教え続けてくださっていたのではないかと思います。


自由記述の難しさ

特に難しかったのは、自由記述を扱っていたことでした。

自由記述には、その人が何を考えているかだけでなく、それをどれだけ言葉にしやすいかも表れます。将来について真剣に考えていても、うまく書けない人はいます。逆に、考えを整理して表現するのが得意であれば、それだけで意識がより明確に見えやすくなることもあります。


つまり、私が見ていたのは「意識そのもの」だけではなく、「それがどう明らかにされたか」でもありました。ここを飛ばして結果だけを読むと、統計は少し強く言いすぎてしまいます。数字にすると整って見えるのですが、現実は案外きれいに整列してくれません。


就職してからも、たぶん同じことを考える

この感覚は、卒業研究で終わるものではない気がしています。

私は就職後も、仕事のなかで統計やデータに触れる場面があると思っています(主にマクロ経済なので学部時代の研究とは異なってきそうですが……)。組織の意思決定でも、政策の検討でも、数字を見ることはきっと大切になります。実際、社会に出るほど「データに基づく判断」が求められる場面は増えていくのだと思います。


だからこそ、卒業研究を通して学んだ「数字があるからといって、そこから何でも言い切ってよいわけではない」という感覚は、これから先もかなり重要なのではないかと思っています。数字を軽視しないことはもちろん大切です。でも同時に、数字を過信しすぎないことも同じくらい大事です。データは判断の土台にはなりますが、判断そのものを代わりに引き受けてくれるわけではありません。


仕事では、研究以上に早く結論を求められることもあるはずです。そんなときほど、「この数字から何が言えて、何はまだ言えないのか」を落ち着いて考えられる人でいたいと思います。統計を使えることよりも、統計をどう扱うかのほうが、実はずっと問われるのかもしれません。


それでも、統計はやっぱりおもしろい

卒業研究を終えて思うのは、統計への信頼がなくなったわけではない、ということです。

むしろ逆で、統計を信頼しているからこそ、その限界にも目を向けるようになりました。統計は、現実を完全に言い切るための道具というより、どこまでが見えていて、どこから先はまだ見えていないのかを教えてくれる道具なのだと思います。


以前の私は、「数字があれば見える」と思っていました。

でも今は、「数字があるからこそ、見えない部分にも気づける」と思っています。


有意差があっても、全部は語れません。

けれども、全部は語れないからこそ、統計はおもしろい。


卒業研究を通して学んだのは、たぶんそういうことでした。


2025年度秋 篠原研究会卒業生

佐々木菜緒(総合政策学部)


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